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1799年 楊露襌は、貧しい農家に生まれ、10才の時に、陳家の奉公にでる。当時、貧しい家の子供が年季奉公にでるのはまれではなかった。
陳家9代目の主人、長馨(CH'ANG-HSING)のもとで、仕事の合間に陳式拳法(CHEN BOXING)を初めて習い、それから改良されてできた太極拳を、懸命に修行した。奉公の身でありながら、家族同様に育てられたのは大変に幸運なことであった。楊氏が、40才の時に主人が亡くなり、奉公から解放された。主人のいなくなった家に未亡人と一緒に住むことは、認められなかったのである。
 故郷の廣平市に戻った楊氏は、武(WU)家が所有する薬店で働くことになる。名門の武氏は、知識人としても知られており、武術には特に熱心であった。楊氏から太極拳を取得した武氏は、後に陳青莎(CHING-PING)から趙堡(CHAO-PAO)式を学び、武式太極拳を創設したと記録されている。
楊氏は、武術家として名をあげるようになり、政治的にも力のある武氏のすすめもあって、北京の皇室専属の師として任命される。
この時期、中国は清皇帝のもと満州民族によって統治されていた。
清王朝は、人民の多くが漢民族だったため、その反乱を恐れ、有能な武術家をかかえて勢力を維持しようとしていた。皇室の武術の師となった楊氏にとっては、微妙な立場であった。彼には、皇室の人々に太極拳の真髄を教えることも、適当に教えることも自在にできたわけである。    
いずれにしても、彼の技法、理論は誰にとっても難解だったといわれている。
 郭連蔭(KUO LIEN-YING)の記録によると、楊氏が皇室で教えた太極拳のほうが、簡単だといわれているのは、皇室の人々が真剣に修行しなかったからだとという説があるが、漢民族の楊氏は、満州民族には真の技法を教えるつもりはなかったというのが真実らしい。
今日、数ある太極拳の中で最も知られているのが楊式で、1920年 楊露襌の孫、楊澄浦(YANG CHEN-FU)によって広められたこの北京式である。1950年に中華人民共和国政府によって、健康維持のために24型に短く改良されて、世界各国に広められた。約15分間の動作だが、覚えやすく、ビギナーにはわかりやすい太極拳入門の第一歩となるだろう。
 そして、公けにされることなく今日まで伝えられてきたのが、廣平楊式太極拳64型である。


北京式&廣平式

 北京式の特徴は、両足の中心にからだの重心をおき、片足を踏み出し、後ろ足から前足へ体重をかけた時に、後ろ足のひざが伸びることにみられる。
 廣平式では、重心は常に両足の中心に保ち、後ろ足は伸ばさず、ひざを少し曲げて広げる。後ろ足にも力が加わり自然に腰、股間が広がり、安定した形になる。そして、円運動にらせん状の回転運動を伴うことが、大きなポイントである。円を描きながら、車輪のように動く動作である。
王宗岳(WANG TSU-YUE)の資料によると、形を意識せず円や四角の動作を保てとある。
円は、地、四角は天のエネルギーである。
上半身と下半身の動きは、手と足が一体となるようにバランスをとることが大切である。水平移動で、体重を足から足へ移す時は、両足のかかとを地につけて、腰を回しながら足を踏み出す。手は横、上、横、下(四角)と円を描くように、そしてらせん状に回転しながら進む。
ただの白紙に円を描くのは容易ではないが、四角の形の中には容易に描くことができるのと同じである。
四角い円運動にらせん回転を加えると、攻撃のための前進、後退に効果的である。上下運動は、相手のバランスをくずし攻撃から守り、水平運動は、相手の守備をやぶる。これらの動作は、相手に見えない内面 のエネルギーを養い、いかに少ないエネルギーで強い力を得るか、その鍛練になる。例えば、走っている列車の車両そのものを倒そうとするには、ほとんど不可能だが、小さい連結部分をはずせば容易にできるようなものである。
 郭連蔭は、太極拳の形だけにとらわれず、受け継がれてきた歴史の本質を理解し、実践することが真の太極拳であるといっている。